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2014年にむけて

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ご無沙汰しています。

最近のご報告をいくつかと、2014年のはじめにあたってのメッセージをお伝えしたいと思います。

松の内も過ぎた今、年初のメッセージというのは
なんとも出遅れた感じに思われるでしょうか。


今年2014年1月31日は、旧暦1月1日。そして元旦と同じく新月を迎えます。
新・旧暦の元日が新月という不思議な年。
そして、ひと月に2度目の新月を迎える特別な日です。


新しい年の始まりに向けて、今年の自分自身、「どうありたいか」を
今一度じっくりかんじてみる機会にしたいと思っています。


昨年は、縁あって春に高千穂に出かけたのち、
伊勢、熊野、出雲、丹後、丹波と日本の神様のもとへ訪れる機会をいただきました。
こんなにも国内ばかり旅したことは初めてでした。


日本の神様には正直なところあまり興味がなかったのです。
わたしが好きな聖地は、マウントシャスタや戸隠、白神山地といった自然公園が多いのですが、
日本の神社というのは、鳥居があって、本殿があって、お祀りされている神様に名前があって。

そんな「きちっとした」神様のところに、参拝のマナーも知識もなくでかけるのは
居心地が悪いというのでしょうか。

日本人だから知っていてあたりまえという自分自身に課す妙なプレッシャーも
ますます神社からわたしを遠ざけていました。


神社にお詣りに行きたいと思ったわけではありませんでしたが、
お客さまをお連れすることになったりとか、その場所に行くと不思議に
案内してくださる方があらわれたりとか、いつもとは違う流れで
日本の神様にまつわるいろんなことを教わることが多かったのでした。



わたしが3.11以来ずっと受け取りつづけているメッセージは、

「人のゆきすぎた欲が、地上での不調和を生み出している」

です。


昨年からの旅は、その理由やなりたちをひとすじの物語としてみせてもらったような旅でした。

個々の旅の報告は時間をかけていずれしたいと思いますが、
今日は、今年に入ってからでかけた久高島のことを少しお話ししたいと思います。



旧暦の年末にあたる今年1月に、久高島を訪れました。

久高島に最初に訪れたのは18年くらい前のことです。

神の島だとか、聖地だとか、そんなことをなにも知らずに訪れたこの島は、
静かな、なにもない、いなかの島でした。
でもそこには当時、完璧な美しさがありました。

浜辺の洞窟にすわっていると、子宮のなかにいるように感じたり、
朝日が海の向こうにまっすぐのぼっていくようすだったり、
断崖のわき水や、まっすぐにのびる白い道が、
完璧に美しくて、18年前のわたしはその場にいるだけで安らぐように感じたのでした。

4年前の2009年にも久高島を訪れました。
そのときには、少し様子が変わっていました。

まずたくさんの人が訪れていたことに驚きました。
ハイヒールやブーツ(長靴ではなくて)姿の若い女性がたくさん来ていました。


わたしの記憶にある久高島は、農作業しているおばあくらいしか
すれ違う人がいなかったので、履物といえば島ぞうりか長靴だろう、
といったイメージだったからです。

「神の島」ということで有名になって多くの観光客が訪れている。
そう聞きました。


鉄筋の大きな学校や、きれいな宿泊施設ができていて、
すでに、過去のわたしの記憶とは違う島でした。
カベール岬やウパーマ、イシキ浜の目に見える景色は変わっていませんが、
空気の質量みたいなものが変わったような感じでした。

あれっと思ったのが、禊につかわれている涌き水、ヤクルガーのにごり。
もう少しきれいだったなぁと。
4年前は、天気のせいなのだのだろうかと思ったのですが、
今回訪れてみて一時的なものではないようだとわかりました。


久高島には、ガーと呼ばれる井戸がいくつか残っていますが、
今は本島から水がまかなわれていて、
現在生活には使っていないようです。

今はもうなくなってしまった「イザイホー」というお祭りがなにかと話題になる久高島では、
今もなお島のおばあたちは、日々の祈りを欠かしてはいません。
太陽に祈り、先祖に祈り、一族の神に祈り、自然の中の神に祈っています。


神への祈りが、日々の生活の不安から守ってくれる唯一のものだったからです。

今は、「祈りに代わるもの」が、台風で壊れない家を、枯れない水を、たべものを、
たぶん、家族の健康をも、もたらしてくれるようになりました。

でもおばあたちは、今もなお目の前に差し出されたあらゆるものに、
神の恵みをみいだし、感謝をおくり、祈りを欠かすことはありません。


18年ぶりに会うことができた神女(カミンチュ)のおばあが、いいました。

「島でとれないものを食べたくはない」

昔は貝がとれた。今はとれないから貝は食べない。

おばあが笑顔で語ったひとことが、
「貝はお店で売っていないの」と何気なくきいたわたしに、
わたしの生活を守る神さまと離れていることを気づかせてくれました。



豊漁を神に祈る。
豊作を神に祈る。
家族の健康を祈る。
そして神に感謝する。


古来の日本はとてもシンプルだったのです。


古来の日本は、太陽に、岩に、山に、滝に、神をみとめ祈ってきました。
自然そのものがご神体で、神さまには名前もなく、
ただただ人は生活の不安から家族を守ってくれるように祈り、
無事を感謝して祈っていたのです。



今は経済が、お金が、わたしたちの生活を支えてくれています。
お金で便利な生活や安心が買える時代です。
それを排除して生きることは意味のないことだとも思います。


美しい自然を残すために、水道をつかわずに今まで通り井戸を使ってとか、
歴史的な景観を残すために、台風には弱いかもしれないけど、
伝統的な建物のまま残しておいてとか、
そんなことおばあにとても言えません。



でも、豊かになることで、祈りや感謝を忘れ、神さまとのつながりを忘れているとしたら、
わたしたちは気づかぬうちに、わたしたちが大切にしてきた神さまを奪われてしまったのかもしれません。



「お金でなんでも買える」とよく言われます。
愛さえも買えると。

たしかに、その通りかもしれません。


でもお金という神さまは、なんでも与えてくれるけれど、
わたしたちを満足させてくれないような気がするのです。
一時の充足感は次なる欲と欠乏感へと変えられてしまうような気がします。



わたしたち日本人の祈りの中には、いつも充足があったのではないかと思うのです。

ご祈祷すれば、いつも自分の思い通りの結果が得られる、というわけではありませんが、
「ご神託」という言葉があるように、結果を前向きに受け止めることができたのです。



3.11で、わたしたちは、「祈り」を思いだしました。
わたしたちは、多くのものを喪いましたが、忘れ去っていた大切なものを取り戻しもしました。


わたしたちは、もう一度「祈り」の対象である神を見つめ直すチャンスを得ました。


ある人には特定の宗教の神さまかもしれないし、
家族かもしれないし、
あるいはお金かもしれません。


ただ大切なことは、自分の意志で選択するということ。

わたしたちが、自覚していてもいなくても、わたしたちの選択が、
わたしたちの未来に影響していることは揺るぎない事実だからです。


地球温暖化も、
原発も、
戦争も、
地雷も、
スモッグも、
貧困も、
金融危機も、
臓器移植も、
高齢化も、
少子化も、
人口増加も、
祈りを忘れるほどの豊かさも、


この地球で起きていることはすべて、わたしたち人間の思いが創り出した現実なのです。
わたしたちの無関心もまた、なにかが生み出される手助けになりえます。



「原発は、豊かさとひきかえに埋められた核の地雷」

あるときそんな言葉がおりてきて、ビジョンをみせられました。
恐ろしくて足がすくみました。

だから、もちろんわたしも原発を廃止してほしいと思っています。
でも、原発がなくなりさえすれば、あとはどうなってもいいとも思いません。

エネルギーをどう手当するかを考えるより、
エネルギーを必要とするわたしたちの
欲との関わり方を見直したほうがいいかもしれないからです。


2020年の東京オリンピックが決まりました。
きっとこれから7年、東京の経済は活性化するでしょう。
でも、中止ということもありうる、ということも心の片隅に留めておく必要があります。

奇しくも東京オリンピックは一度中止になっているそうです。
1940年に行われる予定だった第12回の夏季オリンピック。
日中戦争の影響で、開催権返上となりました。


そんな大変なことにならぬよう、丁寧に暮らして行きたいと思います。


ちょっとだけ、時間をかけてじっくりと眺めてみてほしいのです。
あなたが望んでいるものは、本当にそれなのか、と。
祈りを通して。そしてあなたが本当に信頼するもの、あなたの神との対話を通して。


旧暦の新年の新月の日にむけて、もう一度、あなたの2014年はどうありたいか、
じっくり祈りの時間を持っていただけたらと思うのです。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今日もあなたにすてきなことが、たくさん起こります☆
感謝をこめて。